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思い返してみますと、結構色んなことがありました。普段は忘れてますけど。

皆様はいかがでしょうか?

あ、そういえば、さすがに受験前に不安になって、ぽっきりプライスでデッサンの短期講習に行きました。

結局そんな付け焼刃が通用するような甘い美大受験の世界ではありませんでしたけど。

ある日煉瓦のデッサンで、無地だとつまんないので、好きに模様を付けてカッチョよく描いたりしてたら、「それはデッサンじゃない!」なんて先生に注意されましたっけ。トコトンのド素人でした。でも、とにもかくにもまんがくんが唯一学校以外で絵の勉強をした数か月でした。僕の脳の中で三次元を二次元に変換するコツをつかんだ数回の授業でした。「アグリッパ」という名前の人の石膏像が苦手で、そのカエルのような表情がキライでしたまんがくんでしたが。そのアグリッパさんが受験のお題で登場しました時は心で悲鳴をあげましたっけ(涙)。その大学とはよっぽど縁がなかったんですねえ。ちなみに前述の和歌山の女の子は別の学部に無事合格しまして、一度大学の寮にドキドキしながら(男子禁制だったのです)遊びに行ったのを最後にお会いしてません。

今でもはじけそうなほっぺたで元気に笑ってらっしゃいますでしょうか。

そんな美大予備校でもやっぱり思い出しますのは、クラスメートの女の子たちです。みんな多分もっと幼い頃から美大を目指してたんだろうと思います。真剣な受験生のオーラがありましたもの皆様。ある一人の女の子は姉御肌な子で、トロいまんがくんはよく喝を入れられてました。怖いけど笑顔のいいコでした。

ある大人しい女の子からは「受験のお守り!」なるものをプレゼントされてとても嬉しかった思い出があります。お互いに恥らいながらな、うぶうぶでカワイイ頃です。

たまたま、その予備校に僕と推薦入試の権利を争ったらしい同じ高校の女の子がいました。僕を無言で見つめる、憎いような怒りのような哀しいその子の目をいまだに思い出します。どうせ落ちるんならその子に譲ってあげればよかったなぁなんていまさらながら思ったりもします。でもそれがまんがくんの歩く道だったようです。

というワケで美大はあきらめて、普通に進学することにしましたが、理系が大の苦手なまんがくんでしたので、文系で一番専門職っぽい「法学部」に行くことになりました。進学しました横浜の某大学の受験科目が有難いことに「国語」と「小論文」だけだったのです。なんて親切な大学でしょう?国語だけはなぜだか唯一(当時で)偏差値70越えてましたので、暗記しなくていい受験科目はアホなまんがくんに垂れてきた蜘蛛の糸だったのです。という感じで日本一空気が汚いと当時言われてました公害だらけな生まれ故郷を後にして(ちなみに今では海も空気もきれいな街になったようです)始まりましたトレンディ(死語)なキャンパスライフでしたが、やっぱりどこかに絵に対する気持ちはくすぶったままでした。実はのアルバイトで、ある漫画家先生のアシスタントをやらせて頂いたこともありました。ただ、経済的にやっていけませんでしたが・・・。

そんなある時テレビで同い年の女の子アイドルが二科展に入選!なんてニュースを見ました。ここでもまたアホなまんがくんは、先に名前が売れれば絵も売れるんじゃんなんてかなり安直に考えまして、ちょうど、大学4年分の卒業単位が3年生のウチに取れてしまいましたので、暇な4年生の時になぜだか某有名劇団に入団してしまったのです。ケツしか映ってませんでしたが、テレビのエキストラなんてのもやりましたっけ。恥ずかしながら。しかしながらの高額な毎月の月謝?プラスの公演費用にきゅうきゅうになってしまいまして。今は亡き恩師の演出家の先生が退団する代わりにということで、貯め込んでた未払い金を帳消し処理してくれたのでした。この先生とはその後のあしあとで偶然というにはあまりに運命的過ぎる再会をしたのですが。エピソードはのちほど。その後、一応の就活をして、元々物作りが好きなまんがくんでしたので(当時は不景気の真っただ中で男は営業職しかないような時代でした。)それならと無謀にも有名テレビ局を受けまくったのでした。もちろん全滅でした。

あ、そういえば大学受験の時にローリングストーンズが初来日しまして、行くしかない!ということで受験の前の日にキースやミックと大騒ぎしちゃいました。受験したのはいわゆる6大学でしたが当然不合格です。でもストーンズの方がキモチで勝ったのでした。

という具合に「絵」一色でした、まんがくんのあしあとに演劇なんかの別の色が入り始めた頃でした。

ちなみにあんなに勉強した法律も今では憲法9条ぐらいしか覚えてません。でもそれで十分かもです。

就職先が無くても暮らしていかなければなりません平成枯れすすきでしたので、高校の同級生が紹介してくれた、渋谷の某イタリアレストランで働き始めました若者なまんがくんでした。そのレストランはお土地柄芸能マスコミ関係のお客様の多い隠れた名店でした。旧ソ連の有名ピアニストさんもいらっしゃったり。またこのお店である文豪の大先生と御縁を頂きましたまんがくんでした。普通に暮らしてましたら雲の上の上にいらっしゃいますような先生です。

とりあえず「旅立ち編」の〆としまして、思いましたのはよくも悪くも人様との御縁が自分を作っていくのだなあということでした。

チャンチャン♪ 

(つづく?)

 

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