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manga  Road

​1979年はユネスコの「国際児童年」という年だったそうな。「ビューティフル ネーム」♪ですね。

「まだ生まれてないよ~」なんて人から「懐かしい~」なんて方まで様々だと思いますが。

mangakunはこの年に開催されました絵画コンクールで「ひまわり」の絵を描きました。そしてその絵がユネスコの賞を取りましたことが「まんがくん」の初めての絵描きとしての外出でしたように思います。それまで自分の世界だけのものでした「絵」といいます行為が

初めて外の世界と触れたのです。

「はじめましてコンニチハ」「これからもヨロシクね。」という具合でそれ以来「絵」ちゃんとはずっと仲良しさんです。ピンチの時に僕を守ってくれたのは他の誰でもない「絵」ちゃんでした。

きっと皆さんにもそんな自分だけに贈られたギフトがあることと思います。

ちなみに まんがくんは「数字」と「運動」がニガテなので、スポーツでみんなのヒーローになったり、物理や数学を黒板に出てスラスラといちゃうようなヒトに憧れちゃいます。

みんなそれぞれな配役です。

こども時代にありがちな「いじめ」みたいなことも「絵」ちゃんのパンチ一発で吹き飛んでしまいます。一躍ヒーローになれちゃうのでした。

ちなみに小学生の時のクラブ活動は「漫画クラブ」でした。顧問の女性の先生も今思えば不思議な先生でした。普段はフツーに国語や算数を教える先生なのに、漫画クラブの時だけはアツイのです。毎回4コマ漫画を描いてみんなの前で発表させられるのですが、「1コマ目と、2コマ目でキャラのタッチが変わっててわかりづらい」なんてご指導や「オチはもう少しこうしたら?」みたいなアドバイスまで、漫画の編集さんバリのノリです。しかもその当時で決して若い女性ではありませんでした。どんなあしあとをたどって、その先生は「漫画クラブ」にたどり着いたのでしょう?

思春期に入りますと、当時人気の漫画の模写はもちろんのこと、男子校でしたので「こんな子描いて~」なんて、自分の理想の女の子像を描いてあげることが増えました。

みんながウブなチェリーだったカワイイ頃です。

元々静物(花瓶とか車とか)の無機物よりも(ヒトや花や動物)などの生命体を描く方が得意でしたので、この頃から、アイドルやスターの似顔絵の注文が増えてきましたと同時に先生や友達の似顔絵を描いてはみんなで笑い飛ばす風刺漫画が増えてきました。

多分この頃に人物画の基礎が出来ていったように思います。当時は意外にもリアリズム志向でしたので、ノーマンロックウェルのおじさまのテクにシビれたものです&スターウォーズシリーズやレイダース・ポリスアカデミーなんかの絵を描いてます(作家さんのお名前はいまだに知らないのです)方に憧れもしました。ですのでたくさんの映画を観たのもこの頃です。地上波で放送される映画は全部観たものでした。ちなみに部活動は美術部でした。絵にどっぷり浸かっているのが楽しかったのです。

 

きっとこれをお読みのみなさんもそんな、「浮世を忘れさせてくれるもの」をそれぞれお持ちのことと思います。

もちろん大学は美術系への進学を希望しましたが、経済至上主義の時代でしたので、そんな生き方は肯定されるようなご時世じゃなかったのでした。ケミカルウォッシュのジーンズなんかがモテモテだった時代ですね。懐かしいッス。

「戦争ではアメリカに負けたけど、経済では勝った!」なんて言ってる錯誤なおじさまがたくさんいた時代です。ある意味戦時中でした。

 

とりあえずは東を目指したくなるのが、西の若者の習性です。今の成績でどこか合格できそうな首都圏の大学がないか、予備校のチューターに相談しまして、紹介されましたのが、ヨコハマにあります某大学でした。バンドをやったり、当時まだ規制前でメーターが90㎞まであったちょーうるさくてバカっ早いRZ50なんていかした原チャリで街を走ったりしてるのが楽しかったもので、地味な暗記科目なんか勉強してなかったのでした・・・。

 

ところがのワンチャンスが。

推薦入試である国立大学の美術科受験生に高校で選ばれたのでした!絵は得意とは言っても、デッサンも何も知らないトコトンの我流なまんがくんでしたので、石膏像なんか描いてもただの素人さんです。そんなまんがくんが合格できるハズもなく、入試で知り合った和歌山弁のちょーカワイイ女の子と淡いトモダチになったことが国立大学入試の全てでしたアホなまんがくんです。もしこれを読んだら連絡くださいね!なんてあり得ない奇跡ですけど。

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